の子孫までも残していくというふうなこともやられた。その後セレウコス王朝によっていわゆるギリシア文明を東のほうへ伝えていく拠点ができました。ヘレニズムが東方へ伝わっていった一つの大きな足がかりになったわけであります。
ところがそのセレウコスがアレキサンドロス大王の征服した後を受けまして、そして東方へやってくる頃に、インドではそこにマウルヤ王朝というものが新しく国家を形成いたしておりました。その最初のチャンドラグプタという王かヒンズークシ山脈の南まで進出してきて、セレウコス王朝の東方への進出をそこで阻んだ。その時にセレウコスと500頭の象を交換をして、セレウコスの支配をヒンズークシの東のほうへ来ることを断念させたというふうな話があります。ヒンズークシいう山脈は、これは「ヒンズー殻し」という意味の名前なのだそうでありますけれども、インド人はあの山脈を越えることが出来なかった。あそこまではインドの文化が進出してきました。その後チャンドラグプタの後の3代目のアショカ王という王がいらっしゃって、この王は仏教も崇拝されました。それか広くパキスタンのガンダーラからアフガニスタンの北にまで、アショカ王国というものを建設されました。各地にアショカ王の碑文という石に彫りつけた記録を実際に残しています。それもアフガニスタンなのです。
その後アフガニスタンにはバクトリアという国ができます。セレウコス王朝の後にこれもやはりギリシア系のサトラップが支配をして、北アフガニスタン、即ちウズベキスタンとの国境のオクサス川の流域を領土として、そこにバクトリア王国というものができました。ちょうどその頃に、今度は東のほうの中国からは前漢の時代の武帝という王が張寫という使者を大月氏国というところに派遣をいたしました。これはいろいろな事情があったのですけれども、漢王朝は北のほうの匈奴という遊牧系の民族に盛んに悩まされていたので、それを東西の両方から挟み撃ちにしようと、西の大月氏国と共同戦線を張ろうということで使いを送ったわけなのです。しかし、大月氏はちょうどバクトリアの土地に住み着いて豊かで静かな生活を営んでいて、もう匈奴に対する恨みは持たないということで、武帝のそういう計画は失敗に終わるのですけれども、しかしその時に初めて中央アジアのいろいろな情報が漢に入りました。珍しい物産、すばらしい文化があるというようなことがわかりました。その中で特に武帝が求めましたのは非常にすばらしい汗血馬、血の汗を流す俊馬がいるということから、それを非常に強く求めて大宛征伐をしたという話があるわけです。
そのようにして、西のアレキサンドロス大王、南のアショカ王、そして東の武帝という三者即ち、3つの大国が期せずして、このアフガニスタンの地までやってきた。お互いが直接接触したわけではないのですけれども、そこでいわゆるよその文化というものに接触したことが動機となって、シルクロードという一つの非常に大きな経済活動というか、文化活動というか、そういうものが巻き興ったのではないかと思うわけであります。
ですからアフガニスタンという国は、そういうちがった文化に属する各種の文物が一つの遺跡からたくさん出てきております。私は大学におりました頃にアフガニスタンからガンダーラにかけての遺跡の調査をしておりましたので、幸いにその辺のスライド持っております。
現在はご承知のようにアフガニスタンは、国の内乱のために、なかなか外国の人が入れないという状況にあります・私は大変それを心配しているわけでありまして、二年前にもユネスコからご依頼があって、アフガンのカーブルに行こうと思ったのですが、私たちが実際に発掘いたしました関連の資料が、カーブルのミュージアムに置いたままになっているのです。1978年に行きましたが、この時に調査した道具類から発掘した資料などが全部置いてあって、まだその報告書もできておらない次第です。私としては何とかそれが無事であってほしいという願いを持っているわけです。ところがなかなかカーブルには入れないということで、何とか早く平和になってくれないかなという期待を持っているわけであります。
今日お集まりの方は観光をやってらっしゃる方だと思うのでけれども、私は観光ということは他国の光輝くものを観るという事でありますから、非常にすばらしいことであると思います。しかし
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